http://islaam.ninja-x.jp/bible.htmイスラームの本-聖書に書いてあること
神様を信じている方、聖書に納得できないところがある方へ
聖書に書いてあること
*このページを読む前に*
イスラームにおいて
①聖書は啓典の一つであること
②イエスは神の使徒の一人であること
③多神崇拝は大罪であること
をご確認ください。 |
●目次● |
注:このページは、当サイト上でキリスト教徒の(イスラームやムスリムに対して偏見のある)方々とやり取りをするにつれてまとめられました
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転載禁止
イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。
「・・・・・・。永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。
〔ヨハネによる福音書 / 17章 3節〕
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上はイエスの言葉です。
「唯一の、まことの神でいますあなた」 と 「あなたがつかわされたイエス・キリスト」
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この二者は同一の存在?
イエスは神?
私はイエスのこの言葉に疑問を抱いているのではなく、
キリスト教徒がこの言葉通りに信じていないのではないかと思っているのです。
ムスリムはというと、この言葉に同意しています。
クルアーンにも次のようにあるからです。
マルヤム(マリヤ)の子マスィーフ・イーサー(イエス・キリスト)は,只アッラーの使徒である。
マルヤムに授けられたかれの御言葉であり,かれからの霊である。
だからアッラーとその使徒たちを信じなさい。
〔聖クルアーン 4. 婦人 (アン・ニサーア) 章171〕
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そして、これには次のように続きがあります。
「三(位)」などと言ってはならない。止めなさい。それがあなたがたのためになる。
誠にアッラーは唯―の神であられる。
かれに讃えあれ。かれに,何で子があろう。
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聖クルアーンからの引用は、これ以後、ページの最後まで出しません。
聖書に書かれていることに基づいて述べます。
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また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
〔ルカによる福音書 / 18章 18-19節〕
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上にあげたのはルカによるものですが、同じ内容のことがマタイによっても記されています。
〔マタイによる福音書 / 19章 16節〕
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
And, behold,one came and said unto him, Good Master, what good thing shall I do,that I may have eternal life?
And he said unto him,Why callest thou me good? there is none good but one,that is God: but if thou wilt enter into life, keep the commandments. (King James Version)
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マタイの日本語訳は英語訳と比べて違う所があるのです。
聖書を個人の手で訳すことは反感を買いそうですが、この英語を日本語にしてみると、
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「よい先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
イエスは言われた、「なぜわたしを『よい』と呼ぶのか。よいかたはただひとり、神だけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。 |
赤字が、日本語訳聖書から抜けている文字、または英語版と比べて違う箇所。
英語版でも新しい版は日本語訳と同じになっています。
日本語訳か英語訳のどちらかが、書き換えられているということになります。
いずれにせよ、(マタイによってもルカによっても)イエスが言っているのは、
「『よい』のはわたしでなく、神だけであり、『よい』ことについて一番よくご存知なのはわたしでなく神である」
ということであるのが分かります。 |
他の箇所でも、イエスが自分よりも優れた存在があることを示唆している言葉があります。
すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
〔マタイによる福音書 / 16章 17節〕
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そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。
〔ヨハネによる福音書 / 7章 16節〕
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イエスは、わざわざ言っています、言わなくてもいいのに、わざわざ言っています。
「わたしの天の父」「わたしをつかわされたかた」
イエスが言おうとしているのは、「わたしではなくて、」 ということですよね。
三位一体でイエスも神であるなら、「わたしの父」 も 「わたし」 も同じではないですか。
それなのに、どうしてイエスは
「わたしの天の父、つまりわたしなのだ」
或いは、
「わたしの教はわたし自身の教であり、わたしをつかわされたかたの教でもある。」
と言わなかったのですか。
そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。
神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、
それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。
〔ヨハネによる福音書 / 7章 16-17節〕
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イエスの伝えようとした教えは、イエスから出たものでなく、神から出た教え。
誰でも素直にこれを読めば、
イエスの言葉は 「イエス≠神」 という意味に取るのでは?
イエスは一言も自分が神であるとは言っていません。 |
こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕*
彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。
そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。
わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。
〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕*
彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。
彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、
イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。
〔ルカ / 24章 36-42節〕 * 新共同訳にはこの 〔 カッコ 〕 で括られた文章はありません。聖霊が書いたとされながら、違いがあるのは、これもおかしいです。
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弟子たちはイエスの霊を見ているのだと思ってびっくりした。
驚いている弟子たちにイエスが何を言いたかったかというと、まとめれば
「何を驚いているのか、私は霊ではない。さわってごらん、私の体を。おまえたちが以前に知っていたのと同じ人間ではないか」
と言っているのですよね?
さらに、イエスはご飯も召し上がり、何ら変わるところがないことを示された。
ここまで確認されましたか?
これは、「復活した体ではない」 ということです
なぜなら、「復活した体」 は 「霊的な体」 であるからです。
イエスは、「霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」 とはっきりおっしゃっています。
復活した者たちは、「天使に等しいもの」 と聖書の中に書いてあります (ルカ20:35-36)
イエスが 「同じ体だ」 と主張されているのに、キリスト教徒が 「復活後の違う体だ」 と言う根拠は?
どちらの言い分が間違っているのでしょうか?
イエス? それともキリスト教徒?
ムスリムはイエスを信じていますから、イエスの主張 「同じ体である」 ことを信じます。
植えつけられた知識に頼るのでなく、自分自身で考えてみませんか。
権力に洗脳されないように。
「いえいえ、私の教会は異端(*)ではないから、その教えは正しいはずです」
と思い込んでいるのでは? |
* 「異端」という言い方は主観的なものですね。
キリスト教徒との対話で「その考えは異端である」という言葉を頻繁に聞かされました。
でも、プロテスタントですら、カトリックから見れば異端として発生したもの。
現代では定説となっている科学の学説の多くも、むかしはキリスト教会から異端として扱われました。
異端の学説例 氷河期の発見 地動説の発見
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ローマ法王はしばしば聖書の内容を否定する声明を出します
1960年代、ローマ法王は
「イエスが十字架に掛けられたことはユダヤ人とは何の関係もない」 との声明を出しました。
1996年ローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世はダーウィンの進化論を認めました。 |
その一方で、多くのキリスト教会は聖書には間違いがないことを主張し、
聖書の記述どおり、宇宙・世界は6000年前に誕生したと主張しています。(キリスト教にまつわる豆知識) |
あとで述べますが、聖書出版界は聖書の加筆、削除も行ってきました
これを読まれて、神様から考える機会を授かったのですから、
ご自身の頭でこのことを考えてはみませんか?
キリスト教徒のみなさまは、
「イエスを信じないなんて、ユダヤ教徒はなんて頑固なんだろう!」 と思うでしょう?
ムスリムも、キリスト教徒に同じように感じています
「聖書にこんなに明白に記されているのに、キリスト教徒はなぜ信じないのだろう」 と。
イエスがされた種まきの例え話を思い出して、心をやわらかく
イエスが言っていることにもう一度耳を傾けてください
それから話は戻りますが、
イエスが神であるのなら、「復活」 前のイエスが死んでいたとされる三日間、
この世は神不在の中に存続していたということですか?
だって、三位一体は不可分なのでしょう?
神の子イエスが十字架の上で亡くなったときに、父である神も聖霊である神も亡くなった。
イエスが死んでも他の神が生きていたのでは、複数の神がいることになります。
そもそも、神は死んだり生き返ったり、ころころ変わるものではありません。
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。
〔ヤコブの手紙 / 1章 17節〕
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「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」
〔マルコ 14章 36節〕
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イエスは十字架に掛けられることを非常に恐れ、それが起こらないことを願い、上にあるように、神に祈りました。血のような汗をかきながら 額を地に平伏して。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
〔マタイによる福音書 / 7章 7-11節 新共同訳〕
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イエスはこのように祈りの力について語られました。
高潔なイエスが、ゲッセマネでされたように必死で祈りを捧げられたのに、祈りは聞き届けられなかったのでしょうか?
その答えは次にあります。
キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。
〔ヘブル人への手紙 / 5章 7節〕
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イエスの願いは「聞きいれられた」 ・・・つまり死ななかった、ということになります。
このような預言もありました。
主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。
〔詩篇 / 34篇 20節〕 骨について他に出エジプト12:46、民数記 9:12
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十字架に手足を釘で打ち付けられていたら、骨に損傷を受けるはず。
この預言が成就されたとすれば、イエスは十字架にかけられなかった。
次に引用する、この預言は成就した、と書いてある箇所では 釘による手足の骨の損傷について触れていませんが、また別のことが見出せます。
そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。
イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
〔ヨハネによる福音書 / 19章 32,33,34,36節 新共同訳〕
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たとえ十字架に掛けられていたとしても、イエスはまだ生きていたのですね。死んでいたら血が流れ出ることはありませんから。
はじめの兵卒らはイエスが生きているのを知って、イエスに同情して、足を折らずにいた可能性も考えられます。
加えて、この文章を何度読み返しても、「キリスト」 は 「神」 ではないことの証明にしか見えません
キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。
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それでもまだイエスは十字架で死んだというのなら、イエスは神に呪われた者であるということになります。
ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。
〔申命記 / 21章 22-23節 新共同訳〕
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では、十字架にかけられたのは誰だったのか? (聖クルアーンにはこのように記されています)
マルコ16章の最後にある、復活についての部分が挿入されたものであることも考慮ください。
Judas stars as 'anti-hero' in gospel
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さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
〔ルカによる福音書 / 3章 21-22節〕
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これは神からの啓示でなく、物語りです。イエスのおっしゃったことでもありません。
この聖書を書いたルカはイエスの弟子でもありませんでした。
それにも拘わらず、イエスが神でも神の子でもないことの明らかな証拠となっています。
● 神は洗礼を受ける?
ルカはイエスが洗礼を受けたと言っています。神は洗礼を受けません。
神に仕え神を崇拝するための前段階にあるのが洗礼、
それまでに犯した罪を赦してもらうのが洗礼、
であるとすれば、神に従うという印のようなもの。
神が自らを崇めるために洗礼を受けているのですか?
● 神は誰かに祈りを捧げるの?
祈っておられると
イエスが神なら、いったい何に向って祈っていたのか?
神こそは人々が崇める対象であり、神は誰にも祈りを捧げません。すべての称えは神に向けられます。
● 神様があちらにもこちらにも
聖霊がはとのような姿をとって
この場面を想像してみてください。
神イエスが天にいる別の神に祈りを捧げているところへもう一つの神である聖霊が降りてきた
・・・・異なる位を持った三つの神が登場している。一神教から外れているようです。
● たくさんの神の子
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」
ルカか誰かがこの声を聞いたとしても、イエスが神であることになりません。
なぜなら、「子」 と呼ばれているのはイエスだけではありませんし、
イエス自身も 「あなた(がた)の父」 という言葉を使って民衆に語りかけていたからです。
「イエスは神のひとり子ではない」 を参照ください
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さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。
イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
〔マタイによる福音書 / 4章 1-11節〕 ルカ4:1-13も同様の内容
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● 神が指導を受ける必要がある? 神がサタンに誘惑される?
誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。
〔ヤコブの手紙 / 1章 13節 新共同訳〕
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聖霊が、サタンの誘惑にどのように打ち勝つかを教えるためにイエスを荒野へ連れて行った。
聖霊がサタンのだまし方をイエスに教えた。イエスがそれを避けられるように。
もしもイエスが、キリスト教徒がいうように神、または神の子であるなら、どうしてサタンのやり方を聖霊に指導してもらう必要が?
天地の創造主が教えられる必要があるだろうか?
● 神が断食をして空腹になることがある?
イエスは40日40夜断食し、空腹を感じた。
食物を必要とするものは神でも創造主でもない。神は誰の助けも必要とされない自存者であられる。
飲食しないと生きていけない人間はトイレにも行く。神もそのような性質を持っておられるというのか?
弱く、助けを必要とする人間の性質を、全知全能である神に当てはめることはできない。
見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない。
〔詩篇 / 121篇 4節〕
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「神の子」という言葉については、
「イエスは神のひとり子ではない」を参照ください
悪魔は・・言った、「飛びおりてごらんなさい。
『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』
と書いてありますから」
悪魔はイエスに向って 「神はあなたのために・・・」
と語りかけています。
イエスが神ならその言い方はおかしい。
さらに、足が石にあたって砕けないように、天使に世話を焼いて守ってもらわなくてはならない神とは ?!
落ちるときに天使の保護がいるのは無力な人間ではないですか。
イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
自分で自分を試そうとしているわけではない。イエスは彼の主である神を試みたくないのでしょう?
このイエスの発言を言い換えてみると、
「主なるわたしの神を試みるためにここから飛び降りることはできない。」
ということですよね。
「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」
もしイエスが神であるなら、以前に遣わされた使徒の言葉を引用するのでなく、次のように応えるのでないか。
「これらはわたしが創造したものである。地上にあるすべての王国はわたしのものである。」
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それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。
すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
〔ルカによる福音書 / 4章 14節〕
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主の御霊がわたしに宿っている。
イエスはどうして 「わたしの御霊がわたしに宿っている」
または 「主はわたしであり、御霊はわたしであるが、それがわたしに宿っている」
と言わなかったのだろう?
わたしを聖別してくださったからである
自分で聖別しておいて 「くださった」 とは言わないだろう。
そもそも神がご自身を聖別することがあるのか?
そうではない。
メシアは神によって聖別された。
それまでもあったユダヤ教徒の慣習として。司祭や国王も聖別された。
主はわたしをつかわして
イエスは神によって遣わされた使徒である、ということです
遣わすものと遣わされるものは同じではない、遣わすものの方が上である と書いてあります。
よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。
〔ヨハネによる福音書 / 13章 16節〕
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まさる者とその下に位置する者がいる、
神は唯一なのに?
そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。
〔ヨハネによる福音書 / 7章 16節〕
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イエスの教えでないキリスト教・・・
次は、ゲッセマネの祈りの場面を思い出してください
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「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」
〔マルコによる福音書 / 14章 36節〕
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ここにも、決を下すものと、それに従うものの関係がはっきりと表れています。
一つの神の中に主従の関係があるというのは理解できません
一つの神の中に 「わたしの思い」 と 「あなたの思い」 まであります
そして、
「あなたには、できないことはありません」
そう、神にできないことはありません。
これは、当サイト メモのページに書いたものです・・・(今はもうないページ)
学校にて
その①
ゴッド先生が受け持つクラスには先生の子どもゴッドJr.くんもいました。
ゴッドJr.くんはクラスで優秀な良い生徒でした。
そしていつも、好き勝手するクラスのみんなに 「ゴッド先生に従おうよ。」 と呼びかけていました。
しかし、他の子どもたちは先生の言いつけを守らず、ゴッドJr.くんをいじめてばかりいました。
ゴッド先生はおこりました。
「みんなどうしていい子にならないんだ?!」
でも、ゴッド先生は悪いことばかりする生徒たちを許すことにしました。
ただそれには一つの条件がありました。
クラスの悪い子たちが非の打ち所のないわが子ゴッドJr.くんをはりつけの刑にするという条件です。
・・・・しまいにはゴッド先生はゴッドJr.くんを見捨てました
神はこんなに理不尽なことをするお方ではありません
神が人間を許そうと思えば、
イエスを十字架に掛けなくとも許すことは出来るはずです。
しかも、Jr.ゴッドは神だというのです。神が神に人間の罪を許してもらうのに磔にされる必要が?
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三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」 という意味である。
〔マルコによる福音書 / 15章 34節〕
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初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
〔ヨハネによる福音書 / 1章 1節〕
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
〔ヨハネによる福音書 / 1章 14節〕
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この箇所が、イエスの神性を示す証拠であるそう。
ムスリムもイエスが神の御言葉であることを信じています。
でも、これを読んでどうすれば三位一体という結論に達することになるのでしょうか。
また、これはイエスの言葉ではないし、
イエスに帰属するものでもないので、
イエスの神性を示す証拠とはなりえません。
聖書には疑わしいところがたくさんありますが、
特に 《ヨハネによる福音書》 はキリスト教学者たちによっても全体的に疑いを指摘されているくらいです。
《ヨハネによる福音書》 を使徒ヨハネによるものとする聖書学者は殆どいないということはご存知ですか?
現在では作者不詳とされています。
聖書学者の言葉を引用します、
「ヨハネと、他の三つの福音書が描く二つの異なった記述は歴史的に正確となりえない。
第四福音書にある、イエスのものとされる言葉のほとんどは執筆者の創作で、ヨハネ教団の言葉を反映している。」 |
また、世界屈指の聖書学者レイモンド・ブラウン氏は、《ヨハネによる福音書》 は複数回に渡り編集されていると述べています。
作者も特定できず、「付け加えられたり差し引かれたり」 されているヨハネの福音書中のほんの一部の記述を見るだけで、
聖書全体で貫かれている 「唯一神を信じよ」、
イエスが呼びかけ続けた 「わたしを遣わされた唯一の神を信じよ」
という言葉を打ち消すことはできません。
それゆえ、あなたは、きょう知って、心にとめなければならない。上は天、下は地において、主こそ神にいまし、ほかに神のないことを。
〔申命記 / 4章 39節〕
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イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
〔申命記 / 6章 4節〕
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主は言われる、「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである。それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟ることができる。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない。 ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。
〔イザヤ書 / 43章 10-11節〕
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主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍の主はこう言われる、「わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない。
〔イザヤ書 / 44章 6節〕
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天を創造された主、すなわち神であって/また地をも造り成し、これを堅くし、いたずらにこれを創造されず、これを人のすみかに造られた主はこう言われる、「わたしは主である、わたしのほかに神はない。
〔イザヤ書 / 45章 18節〕
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あなたにこの事を示したのは、主こそ神であって、ほかに神のないことを知らせるためであった。
〔申命記 / 4章 35節〕
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パロは言った、「明日」。モーセは言った、「仰せのとおりになって、わたしたちの神、主に並ぶもののないことを、あなたが知られますように。
〔出エジプト記 / 8章 10節 口語訳〕
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これは口語訳と新共同訳で節が違います。口語訳 8章1-4節 は、新共同訳では 7章26-29節。
ファラオが、「明日」と言うと、モーセは答えた。「あなたの言われるとおりにしましょう。あなたは、我々の神、主のような神がほかにいないことを知るようになります。
〔出エジプト記 / 8章 6節 新共同訳〕
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主なる神よ、あなたは偉大です。それは、われわれがすべて耳に聞いたところによれば、あなたのような者はなく、またあなたのほかに神はないからです。
〔サムエル記下 / 7章 22節〕
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言った、「イスラエルの神、主よ、上の天にも、下の地にも、あなたのような神はありません。あなたは契約を守られ、心をつくしてあなたの前に歩むあなたのしもべらに、いつくしみを施し、
〔列王紀上 / 8章 23節〕
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主よ、われわれがすべて耳に聞いた所によれば、あなたのようなものはなく、またあなたのほかに神はありません。
〔歴代志上 / 17章 20節〕
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主よ、もろもろの神のうちにあなたに等しい者はなく、また、あなたのみわざに等しいものはありません。
〔詩篇 / 86篇 8節〕
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わたしはエジプトの国を出てからこのかた、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はない。
〔ホセア書 / 13章 4節〕
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主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ/その御名は唯一の御名となる。
〔ゼカリヤ書 / 14章 9節 新共同訳〕
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イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
〔マルコによる福音書 / 12章 29節〕
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さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。
〔コリント人への第一の手紙 / 8章 4節〕
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神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。
〔テモテへの第一の手紙 / 2章 5節〕
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ヨハネ1:1 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 」 をイエスが神であることの証拠とするには、これら全てを間違いであるとすることになります。
あるいは 「言は神であった」 は、次の箇所
そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。
〔コリント人への第一の手紙 / 3章 23節〕
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のように、 「言は神 のものであった」 のかもしれません。翻訳するときに間違いがあった可能性は否めません。
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神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。
〔創世記 / 6章 2節〕
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キリスト教徒の方に、「イエスは神の子であると聖書に書いてある。神の子というのは神である。」 と言われました。
聖書の中で神の子と呼ばれているのはイエスだけではありません。
ここにに出てくる 「神の子たち」 は父なる神ヤハウェと子なる神イエスとどのような関係になりますか?
この 「神の子たち」 はイエスの兄弟である神々ということになりますか?
●アダムも神の子
イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。ヨセフはヘリの子、 それから、さかのぼって、
・・・・・・・中略・・・・・・・・
エノスはセツの子、セツはアダムの子、アダムは神の子、そして神 にいたる。
〔ルカ / 3章 23-38節〕
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☆ちなみに、「人々の考えによれば」は後世に挿入された言葉です。(「書き換えられた聖書の箇所」参照)
☆斜体部分について、日本語の聖書では 「エノス、セツ、アダム、そして神にいたる。」 と曖昧な感じですが、英語では、"the son of Enosh, the son of Seth, the son of Adam, the son of God." と明記されています。
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●イスラエルも神の子
主はモーセに言われた、
・・・・・・・
「あなたはパロに言いなさい、『主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。
〔出エジプト記 / 4章 21-22節〕
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●神の創造物
かの時には明けの星は相共に歌い、/神の子たちはみな喜び呼ばわった。
〔ヨブ記 / 38章 7節〕
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●ダビデも神の子
わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。
〔詩篇 / 2篇 7節〕
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●ダビデの民
神の子らよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。
〔詩篇 / 29篇 1節〕
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●平和をつくり出す人たち
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
〔マタイ / 5章 9節〕
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また、神が 「父」 と呼ばれるのは、イエスが 「わたしの父」 という時だけではありません。
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。・・・・・
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、
〔マタイ / 5章 45,48節〕
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そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
〔マタイ / 6章 4節〕
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それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
〔マタイ / 6章 1節〕 |
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。
〔マタイ / 4章 44-45節〕 |
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。
すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう 。
〔マタイ / 6章 6節〕 |
これらはイエスの言葉です。
たくさんあるので挙げきれないくらいです。
「あなたの父」 等の語句で検索してみると何百もあります。
ここで 「父」 が意味するのは血縁関係にある父ではないでしょう? しもべを導き守る存在という意味ですよね。
これがもし血縁関係の意味の父子関係であるとするなら、
ユダヤ教徒や聖書の読者みなが神の子=神になってしまいます。
「主の祈り」 を唱えてみてください。その冒頭にも出てきます。
天にましますわれらの父よ・・・・
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キリスト教徒がイエスを神とする、もう一つの論拠
「イエスの父が神であるからイエスは神である」 に関して
例えばあなたはお父さんの子であり、人間です。お父さんが人間であなたは人間の子と言う事は無く同じ人間ですね。
と、あるキリスト教徒に言われました。
この例、すでに 「イエスは神の子である」 という納得できない前提に成り立っているものですが、
私の父は人間なので私も人間、これはわかります。
でも、このキリスト教徒は母親の存在を忘れているようです。
私の母も人間です。
イエスの母はこの場合どうなりますか?
マリアは人間でなく神ですか?
マリアも神だとすると、三位一体ではなくて 「四」 になるのでしょうか。
となるとマリアの両親も神でしたか? 祖父母も? もしそうなら、数字は限りなくなりますが、
父と子と聖霊と母と祖父母と (おじさんやおばさんも?)・・・・すべて一体?
三位一体について
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わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。
〔ヨハネによる福音書 / 14章 11節〕
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「イエスが上のように言ったからイエスは神である」 という主張に従うと、次の箇所は・・・
父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
〔ヨハネによる福音書 / 17章 21節〕
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弟子たちもイエスと父のうちにいる、つまり弟子たちも神であることになり、15位1体になります。
そうではありませんね。イエスが言っているのはチームワークのようなことではありませんか。「みなが一つとなって働く」 というときと同じように。
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また、「イエスの行った奇跡が、彼が神であるという証拠だ」 というキリスト教徒がいらっしゃいました。
それを根拠とすると、神様だらけになります
他の預言者たちも、彼らが神の預言者であることを証明するために、奇跡を起こす力を神から授かっていましたから。
杖を蛇に変え、海を分けて渡ったモーセ、大魚に飲まれたヨナも奇跡でした。 |
イエスは
5斤のパンと二匹の魚だけで5000 人 を満足させることができた |
エリシャも
大麦のパン20個と新穀1袋を100人に与え、人々は食べてなお余した
〔列王紀下 / 4章 42-44節〕 |
エリシャは ひとりの妻に油について請け負った
〔列王紀下 / 4章 1-7節〕 |
からすがエリヤに食べ物を運んできた
エリヤは やもめ女にかめの粉とびんの油について請け負った
〔列王紀上 / 17章 1-7節、16節〕 |
イエスは
らい病患者を助けた |
エリシャも
らい病のナアマンを癒した
〔列王紀下 / 5章 14節〕 |
イエスは
目の見えない人を見えるようにした |
エリシャも
目の見えない人を見えるようにした
〔列王紀下 / 6章 17節、20節〕 |
エリシャは
目の見える人が見えなくなるようにと祈り、そのようになった
〔列王紀下 / 6章 18節〕 |
イエスは
死人を蘇らせた |
エリヤも
死人を蘇らせた
〔列王紀上 / 17章 22節〕 |
エリシャも
死人を蘇らせた
〔列王紀下 / 4章 34節〕 |
エリシャの骨さえも
死人を蘇らせた
〔列王紀下 / 13章 21節〕
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イエスは
水面を歩いた |
モーセとその民も
死海を分けて渡った
〔出エジプト記 / 14章 22節〕
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イエスは
天に上げられた |
エリヤは
つむじ風に乗って天にのぼった。
〔列王紀下 / 2章 11節〕 |
エノクは 神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。
〔創世記 / 5章 24節〕 |
エノクは 死を見ないように天に移された。 神がお移しになったので、彼は見えなくなった。
〔ヘブル人への手紙 / 11章 5節〕 |
預言者たちにこれらの奇跡をなす力を与えたのは神です。
イエスも言っています、
わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。
〔ヨハネによる福音書 / 5章 30節〕
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しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。
〔ルカによる福音書 / 11章 20節〕
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イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。
〔使徒行伝 / 2章 22節〕
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わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。
〔申命記 / 4章 2節〕
その言葉に付け加えてはならない、彼があなたを責め、あなたを偽り者とされないためだ。
〔箴言 / 30章 6節〕
わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。
〔伝道の書 / 3章 14節〕
この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
〔ヨハネの黙示録 / 22章 18節〕
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聖書の編纂者たちはどうして聖書の言葉を変えてしまったのでしょう?
聖書は神の霊感を受けて書かれたもので、神の言葉とされるのではありませんでしたか?
神の言葉を添削する権利を、いかなる人間が持っているのか?
ムスリムは、聖クルアーンによって、聖書の書き換えられた箇所を指摘することができますが、
キリスト教徒の目にも明らかな箇所をご紹介します
(聖クルアーンなしで、聖書それ自体をみるだけでも、その矛盾から5万の間違いを指摘できると言われます)
イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。ヨセフはヘリの子、
〔ルカによる福音書 / 3章 23節〕
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人々の考えによれば、
日本語の聖書ではこうなっていますが、この箇所は言語によって異なります。
英語の聖書をお持ちの方はご確認ください
(as was supposed)
カッコがついています。
古い版はどうかというと、カッコと括弧内の語句まるごとなく、
直接こうなっていました。
イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、ヨセフの子であった。
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編纂者がおそらく、子羊が理解し易いようにと思って
(人々の考えによれば、)
説明として括弧書きを入れたのでしょう
それが翻訳されたり、後世の編纂者がいじくっているうちに
「このカッコ、なくてもいいかも・・・・」
とうとう括弧までなくなって、
あたかもその語句が最初からそこにあったかのようになった
この、括弧を取り払った方々は、括弧の意味が分からなかったのか? 括弧がどういう時に使われるものかを知らなかったのか?
それとも、神の言葉ではなく
ルカが勝手な思いつきから書いた文章だとみなしているのか?
だから私たちの都合のいいように変えてもだいじょうぶ?
キリスト教徒の方々は、神の言葉を変えても許されると思っていらっしゃいますか?
( ) が取られた別の例 「すべての食物を清められたのである」 [マルコ福音書7章19節]
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アブラハムが前の皮に割礼を受けた時は九十九歳、
その子イシマエルが前の皮に割礼を受けた時は十三歳であった。
この日アブラハムとその子イシマエルは割礼を受けた。
〔創世記 / 17章 24-26節〕
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「聖書では、アブラハムが神に捧げようとしたのはイサクなのに、イスラームがそれをイシマエルだとする根拠は?」
とキリスト教徒から質問されました。(質問というより、尋問調子でした。「クリスチャンとの対話」参照)
「聖クルアーンにそう述べられているから」 というのが答えですが、
それでは納得してもらえず、尋問が続きましたので、聖書に答えを見つけようと読み直しました。
書き換えられているという証拠になるものがあるのではないかと、探すつもりで。(神は間違いであることを示す何かを残しておいて下さっているものです)
そして見つけたのが、今から記すことです・・・
上の聖書からの引用には、アブラハムと長男イシマエルの年齢が明確に書いてあります。
アブラハムが 99才のとき、
イシマエルは 13才
・・・もう少し先へ読み進めて、次は次男イサクが生まれたときのこと
アブラハムは生れた子、サラが産んだ男の子の名をイサクと名づけた。
神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。
アブラハムはその子イサクが生れた時百歳であった。
〔創世記 / 21章 3-5節〕
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↓
イサクがうまれたとき、
アブラハムが 100才
イシマエルは 14才
さて、おさなごは育って乳離れした。イサクが乳離れした日にアブラハムは盛んなふるまいを設けた。
サラはエジプトの女ハガルのアブラハムに産んだ子(イシマエル)が、自分の子イサクと遊ぶのを見て、
アブラハムに言った、「このはしためとその子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、世継となるべき者ではありません」。
この事で、アブラハムはその子のために非常に心配した。
〔創世記 / 21章 8-11節〕
|
↓
イサクが乳離れした年齢 (現代の感覚でいうと1-2才) のとき、
イシマエルは 15-16才以上と考えられる
そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子(イシマエル)を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。
やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき、
「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、矢の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。
神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。
立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。
〔創世記 / 21章 14-18節〕
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↓
15-16才以上であると推定されるイシマエルが赤ちゃんのようです。
今でいう高校生くらいの年齢なのに、お母さんに持ち上げられて抱っこされています。
話が合いません
・・・これは、イシマエルが犠牲になるところだったのを、「イサク」 に書き換えるために前後の話も入れ替えられて、つじつまが合わなくなったのではありませんか?
2006.10.28記
その後、ほかにも年齢が分かる箇所があるのに気付きました。
ハガルがイシマエルをアブラムに産んだ時、アブラムは八十六歳であった。
〔創世記 / 21章 14-18節〕
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↓
アブラムは86歳
イシマエルは0歳
2008.11.10記
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●イサクの母親について 補足●
イサクの母親サラは、年をとっていて、閉経を迎えてから長い時を過ぎていましたが、神の力によってイサクを身ごもりました。
神はまたアブラハムに言われた、「・・・わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。・・・」
アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。
〔創世記 / 17章 15-17節〕
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さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。
それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。
主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。
主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」
〔創世記 / 18章 11-14節〕
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イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」。
〔マタイによる福音書 / 26章 34節〕
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上記のイエスの預言がどのように成就されたかというと・・・・
And when she saw Peter warming himself, she looked upon him, and said And thou also wast with Jesus of Nazareth.
But he denied saying, I know not, neither understand I what thou sayest. ①回目の否定
And he went out into the porch; and the cock crew(にわとりが鳴いた).
And a maid saw him again, and began to say to them that stood by, This is one of them.
And he denied it again. ②回目の否定
And a little after, they that stood by said again to Peter, Surely thou art one of them: for thou art a Galilaean, and thy speech agreeth thereto.
But he began to curse and to swear, saying, I know not this man of whom ye speak. ③回目の否定
And the second time the cock crew(にわとりが二度目に鳴いた). And Peter called to mind the word that Jesus said unto him, Before the cock crow twice,thou shalt deny me thrice. And when he thought thereon,he wept.
〔King James Version〕
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3度否定する前に、1回目の否定後、すぐに鶏が鳴いてしまいました。
新しい版では、
相違に気付いた聖書編纂者たちによって一度目に鶏が鳴いたところが削除されているものがあります。
日本語の聖書でもそうです。
一回目に鶏が鳴いたところを消去してしまったようです。
そのために、以下のように、一度目がないのに、突然 「二度目に鳴いた」 となっています。
ペテロは下で中庭にいたが、大祭司の女中のひとりがきて、 ペテロが火にあたっているのを見ると、彼を見つめて、「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」と言った。
するとペテロはそれを打ち消して、①回目
「わたしは知らない。あなたの言うことがなんの事か、わからない」と言って、庭口の方に出て行った。
ところが、先の女中が彼を見て、そばに立っていた人々に、またもや「この人はあの仲間のひとりです」と言いだした。
ペテロは再びそれを打ち消した。②回目
しばらくして、そばに立っていた人たちがまたペテロに言った、「確かにあなたは彼らの仲間だ。あなたもガリラヤ人だから」。
しかし、彼は、「あなたがたの話しているその人のことは何も知らない」と言い張って、激しく誓いはじめた。③回目
するとすぐ、にわとりが二度目に鳴いた。ペテロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。
〔マルコによる福音書 / 14章 66-72節〕
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そしてよく見てみると、ペテロに 「あなたも仲間ではないか」 と問いかけた人も、福音書によって違います。
つまり、マルコが記したものでは、
一番目の人・・・・・・・女中
二番目の人・・・・・・・先の女中(一番目と同じ女中)
三番目の人・・・・・・・そばに立っていた人たち
ところが、下のルカによる記述では、
一番目の人・・・・・・・女中
二番目の人・・・・・・・ほかの人
三番目の人・・・・・・・またほかの者
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人々は中庭のまん中に火をたいて、一緒にすわっていたので、ペテロもその中にすわった。
すると、ある女中が、彼が火のそばにすわっているのを見、彼を見つめて、「この人もイエスと一緒にいました」と言った。
ペテロはそれを打ち消して、「わたしはその人を知らない」と言った。
しばらくして、ほかの人がペテロを見て言った、「あなたもあの仲間のひとりだ」。するとペテロは言った、「いや、それはちがう」。
約一時間たってから、またほかの者が言い張った、「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」。
ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。
主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。
そして外へ出て、激しく泣いた。
〔ルカによる福音書 / 22章 55-62節〕
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あなたは誰を信じますか。
1.預言したイエス
2.聖霊により言葉を授かり聖書を記したマタイ
3.聖霊により言葉を授かり聖書を記したマルコ
4.聖霊により言葉を授かり聖書を記したルカ
5.全キリスト教徒の導きのために責任感を持って仕事していると思われる聖書編纂者
参考に、四つの福音書はイエスの死後 40-80年たって書かれたもので、その著者の誰もイエスに会ったことはありません。
Youtube(英語) マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネとは誰か?
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そしてダビデは彼から騎兵千七百人、歩兵二万人を取った。
ダビデはまた一百の戦車の馬を残して、そのほかの戦車の馬はみなその足の筋を切った。
〔サムエル記下 / 8章 4節〕
そしてダビデは彼から戦車一千、騎兵七千人、歩兵二万人を取った。
ダビデは一百の戦車の馬を残して、そのほかの戦車の馬はみなその足の筋を切った。
〔歴代志上 / 18章 4節〕
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分かりやすくアラビア数字で表すと、
| サムエル記下 | 歴代志上 |
戦車 (台) | - | 1,000 |
騎兵 (人) | 1,700 | 7,000 |
歩兵 (人) | 20,000 | 20,000 |
数字が違うのですが、これだけで終わりません
さらに英語の聖書を確認してみたところ、
日本語の聖書『サムエル記下』の記述と異なっていました。
David captured a thousand of his chariots,seven thousand charioteers and twenty thousand foot soldiers.
He hamstrung all but a hundred of the chariot horses.
2 Samuel 8:4 (New International Version)
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| サムエル記下 | 歴代志上 | (英)サムエル記下 |
戦車 (台) | - | 1,000 | 1,000 |
騎兵 (人) | 1,700 | 7,000 | 7,000 |
歩兵 (人) | 20,000 | 20,000 | 20,000 |
これは、『歴代志上』の数字と同じ!
はては、この相違に気付いた編纂者が書き換えて数字を合わせたのでしょう (これは New International Version、新版ですから)
ためしに、英語の聖書でも他の版をあたってみると・・・
And David took from him a thousand chariots,and seven hundred horsemen,and twenty thousand footmen:
and David houghed all the chariot horses,but reserved of them for an hundred chariots.
2 Samuel 8:4 (King James Version)
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| サムエル記下 | 歴代志上 | (英NI版)サムエル記下 | (英KJ版)サムエル記下 |
戦車 (台) | - | 1,000 | 1,000 | 1,000 |
騎兵 (人) | 1,700 | 7,000 | 7,000 | 700 |
歩兵 (人) | 20,000 | 20,000 | 20,000 | 20,000 |
別の数字が!
こんなに簡単に見つかることに、私自身びっくりしています。
みなさまも、ちょっと気をつけて読めば、どこか間違いが見つかると思います。
ついでに、アラビア語とフランス語の聖書はどうかしら?
وَأَسَرَ مِنْ جَيْشِهِ أَلْفاً وَسَبْعَ مِئَةِ فَارِسٍ وَعِشْرِينَ أَلْفَ رَاجِلٍ، وَعَرْقَبَ دَاوُدُ كُلَّ خُيُولِ الْمَرْكَبَاتِ بِاسْتِثْنَاءِ مِئَةِ مَرْكَبَةٍ.
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David lui prit mille sept cents cavaliers et vingt mille hommes de pied;
il coupa les jarrets à tous les chevaux de trait,et ne conserva que cent attelages.
2 Samuel 8:4 (Louis Segond)
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David lui prit mille chars sept mille cavaliers et vingt mille hommes de pied;
il coupa les jarrets à tous les chevaux de trait et ne conserva que cent attelages.
1 Chroniques 18:4 (Louis Segond)
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| (日) サムエル記下 | (日) 歴代志上 | (英NI版) サムエル記下 | (英KJ版) サムエル記下 | (アラビア) サムエル記下 | (仏) サムエル記下 | (仏) 歴代志上 |
戦車 (台) | - | 1,000 | 1,000 | 1,000 | - | - | 1,000 |
騎兵 (人) | 1,700 | 7,000 | 7,000 | 700 | 1,700 | 1,700 | 7,000 |
歩兵 (人) | 20,000 | 20,000 | 20,000 | 20,000 | 20,000 | 20,000 | 20,000 |
ハマトの王トイは、ダビデがハダドエゼルの軍勢を討ち滅ぼしたと聞き、
王子ヨラムをダビデ王のもとに遣わして安否を問わせた。トイ自身、ハダドエゼルと交戦中だったので、ハダドエゼルに対するダビデの戦勝を祝って、銀、金、青銅の品々を贈った。
〔サムエル記下 / 8章 9-10節 新共同訳〕
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時にハマテの王トイは、ダビデがハダデゼルのすべての軍勢を撃ち破ったことを聞き、その子ヨラムをダビデ王のもとにつかわして、彼にあいさつし、かつ祝を述べさせた。ハダデゼルはかつてしばしばトイと戦いを交えたが、ダビデがハダデゼルと戦ってこれを撃ち破ったからである。ヨラムが銀の器と金の器と青銅の器を携えてきたので、
〔サムエル記下 / 8章 9-10節 口語訳〕
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ハマトの王トウは、ダビデがツォバの王ハダドエゼルの軍勢を討ち滅ぼしたと聞き、
王子ハドラムをダビデ王のもとに遣わして安否を問わせた。トウ自身、ハダドエゼルと交戦中であったので、ハダドエゼルに対するダビデの戦勝を祝って、金、銀、青銅のさまざまな品を贈った。
〔歴代誌上 / 18章 9-10節 新共同訳〕
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時にハマテの王トイはダビデがゾバの王ハダデゼルのすべての軍勢を撃ち破ったことを聞き、
その子ハドラムをダビデ王につかわして、彼にあいさつさせ、かつ祝を述べさせた。ハダデゼルはかつてしばしばトイと戦いを交えたが、ダビデはハダデゼルと戦って、これを撃ち破ったからである。ハドラムは金、銀および青銅のさまざまの器を贈ったので、
〔歴代誌上 / 18章 9-10節 口語訳〕
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Now when Tou king of Hamath heard how David had smitten all the host of Hadarezer king of Zobah;
He sent Hadoram his son to king David, to enquire of his welfare, and to congratulate him, because he had fought against Hadarezer, and smitten him; (for Hadarezer had war with Tou;) and with him all manner of vessels of gold and silver and brass.
〔1 Chronicles 18:9-10 King James Version〕
When Tou king of Hamath heard that David had defeated the entire army of Hadadezer king of Zobah, 10 he sent his son Hadoram to King David to greet him and congratulate him on his victory in battle over Hadadezer, who had been at war with Tou. Hadoram brought all kinds of articles of gold and silver and bronze.
〔1 Chronicles 18:9-10 New International Version〕
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When Toi king of Hamath heard that David had smitten all the host of Hadadezer,
Then Toi sent Joram his son unto king David, to salute him, and to bless him, because he had fought against Hadadezer, and smitten him: for Hadadezer had wars with Toi. And Joram brought with him vessels of silver, and vessels of gold, and vessels of brass:
〔2 Samuel 8:9-10 King James Version〕
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次の例は、ダビデの人口調査
主は再びイスラエルに向かって怒りを発し、
ダビデを感動して彼らに逆らわせ、「行ってイスラエルとユダとを数えよ」と言われた。
〔サムエル記下 / 24章 1節〕
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時にサタンが起ってイスラエルに敵し、
ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。
〔歴代志上 / 21章 1節〕
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「主」 か 「サタン」 か、大違いです。 (サタンも神であるとするキリスト教会もあるそうですが)
(話はそれますが、「ダビデを感動して」 「サタンが起って」 というのは変な日本語ですね)
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アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。
〔マタイ / 1章 1節〕
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キリストはどうしてダビデの子であろうか
〔マタイ / 22章 45節〕
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イエスは彼らに言われた、「どうして人々はキリストをダビデの子だと言うのか。
〔ルカ / 20章 41節〕
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キリストはダビデの子ではない、と言ったのに、マタイは 「ダビデの子」 と書いた。
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イエスの肩書きの違い
そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」 と書いた罪状書きをかかげた。
〔マタイ / 27章 37節〕
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イエスの罪状書きには 「ユダヤ人の王」 と、しるしてあった。
〔マルコ / 15章 26節〕
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イエスの上には、「これはユダヤ人の王」 と書いた札がかけてあった。
〔ルカ / 23章 38節〕
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ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには 「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」 と書いてあった。
〔ヨハネ / 19章 19節〕
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イエスの死、時間の違い
時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。
〔ルカ / 23章 44節〕
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イエスを十字架につけたのは、朝の九時ごろであった。
〔マルコ / 15章 25節〕
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その日は過越の準備の日であって、時は昼の十二時ころであった。ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。
すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。
〔ヨハネ / 19章 14-15節〕
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エレミヤ?ゼカリヤ?
こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、
主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」。
〔マタイ / 27章 9-10節〕
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わたしは彼らに向かって、「あなたがたがもし、よいと思うならば、わたしに賃銀を払いなさい。もし、いけなければやめなさい」 と言ったので、彼らはわたしの賃銀として、銀三十シケルを量った。
主はわたしに言われた、「彼らによって、わたしが値積られたその尊い価を、宮のさいせん箱に投げ入れよ」。わたしは銀三十シケルを取って、これを主の宮のさいせん箱に投げ入れた。
〔ゼカリヤ書 / 11章 12-13節〕
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Errors in English
正直なところ、こんなに矛盾が見つかるので、探すのがおもしろくなってきたところですが、
私の目的はただのアラ探しではありません。
「聖書にはこう書いてあるのに、クルアーン(コーラン)ではこうなっているのがおかしい」
とクリスチャンの方に問われたのを受けて、
聖書は、客観的に見ても間違った記述があることを提示する必要があるためです。
(念を押しますが、聖書にも多くの真実が残っていることもムスリムは認めています)
次に、聖書は道徳的に規範となるものなのか?を考えます
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こうしてロトのふたりの娘たちは父によってはらんだ。
〔創世記 / 19章 36節〕
ルベンは父のそばめビルハのところへ行って、これと寝た。
〔創世記 / 35章 22節〕
ユダは彼女を見たとき、彼女が顔をおおっていたため、遊女だと思い、
道のかたわらで彼女に向かって言った、「さあ、あなたの所にはいらせておくれ」。彼はこの女がわが子の妻であることを知らなかったからである。彼女は言った、「わたしの所にはいるため、何をくださいますか」。
ユダは言った、「群れのうちのやぎの子をあなたにあげよう」。彼女は言った、「それをくださるまで、しるしをわたしにくださいますか」。
「どんな保証がいいのか」と言うと、彼女は答えた。「あなたのひもの付いた印章と、持っていらっしゃるその杖です。」
ユダはそれを渡し、彼女の所に入った。彼女はこうして、ユダによって身ごもった。
〔創世記 / 38章 15-18節〕
また彼女はほんとうにわたしの妹なのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではありません。そして、わたしの妻になったのです。
〔創世記 / 20章 12節〕
タマルが彼に食べさせようとして近くに持って行った時、彼はタマルを捕えて彼女に言った、「妹よ、来て、わたしと寝なさい」。
タマルは言った、「いいえ、兄上よ、わたしをはずかしめてはなりません。このようなことはイスラエルでは行われません。この愚かなことをしてはなりません。
わたしの恥をわたしはどこへ持って行くことができましょう。あなたはイスラエルの愚か者のひとりとなるでしょう。それゆえ、どうぞ王に話してください。王がわたしをあなたに与えないことはないでしょう」。
しかしアムノンは彼女の言うことを聞こうともせず、タマルよりも強かったので、タマルをはずかしめてこれと共に寝た。
〔サムエル記下 / 13章 11-14節〕
アブサロムは全イスラエルの目の前で父のめかけたちの所にはいった。
〔サムエル記下 / 16章 22節〕
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父と娘たち、母と息子、義父と義娘、兄妹の間の近親相姦です。
しかも、神によって遣わされた預言者たちまでもがこの中にいます。
聖書は聖なる預言者たちを辱めました。
(ちなみに、調べてわかったことがあります。
上の、義父と義娘の姦淫によって双子が生まれましたが、マタイによるとイエスの先祖にあたるとのことです。)
他にも、これは本当に神様の言葉なのかしら?と思う記述があるのですが・・・
たとえば、
- しばしの間汚い話になりますが、聖書にある言葉です -
これを人の糞で焼かなければならない
〔エゼキエル書 / 4章 12節〕
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神が 「パンを人の糞で焼け」 と仰せられ、預言者エゼキエルが神にお許しを乞います。
すると神は、
「見よ、わたしは牛の糞をもって人の糞に換えることをあなたにゆるす。あなたはそれで自分のパンを整えなさい」。
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それでも、まだ牛の糞です。
糞、聖書にたまに出てきます。
万軍の主は言われる、あなたがたがもし聞き従わず、またこれを心に留めず、わが名に栄光を帰さないならば、
わたしはあなたがたの上に、のろいを送り、・・・・・
またあなたがたの犠牲の糞を、あなたがたの顔の上にまき散らし、あなたがたをわたしの前から退ける。
〔マラキ書 / 2章 3節〕
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神に従わないときは顔の上に糞を撒き散らすと、神が仰せられています。
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ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。
ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。
その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。
その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。
その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。
ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。
そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。
〔創世記 / 32章 24 - 30節〕
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キリスト教は神を軟弱なものとみなしているようです。
神は、人間と取っ組み合いをするようなお方でしょうか?
しかも、それで勝てないほどのお方でしょうか?
「夜が明けるからわたしを去らせてください」
〔創世記 / 32章 26節〕
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と人間にお願いする神
「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」
〔創世記 / 32章 26節〕
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と人間に脅されるような存在ですか?
・・・神への冒涜ではありませんか?
太陽は神の被造物です。神はそれが昇るのを止めることさえできるでしょう。
神は全知全能のお方です。
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それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。
〔マタイによる福音書 / 21章 43節〕
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上の言葉はイエスがユダヤ人に向って言われたものです
神がユダヤ人とは別の民を選ぶことを預言していらっしゃいます
次は、神がモーセに言ったことです。この預言者とは誰でしょうか?
「わたしは彼らの同胞のうちから、おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。
彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう。
〔申命記 / 18章 18節〕
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イエスではありません。ムハンマドです。聖書によって証明できます。
申命記のこの節についての詳細は、当サイトから注文できる本 『聖書が証すムハンマド(彼に平安がありますように)』 にあります
また、次はイエスの語ったことです。ここで預言されていることは誰にあてはまるものでしょうか?
「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
〔ヨハネによる福音書 / 14章 16節〕
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けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。
〔ヨハネによる福音書 / 16章 13-14節〕
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ここにある 「助け主」 「真理の御霊」 とは何でしょう?
「もちろん聖霊様です」 とお答えになったキリスト教徒がいらっしゃいました。
次の言葉からそう判断なさっているようです
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊 は、
あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
〔ヨハネによる福音書 / 14章 26節〕
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斜体字部分は元の聖書にはなく、後世加えられた言葉です。
聖書で繰り返し出てくる 「御霊」「霊」「聖霊」、この言葉はわかりにくい言葉です。
この 「霊」 は、英語の聖書を見ると、「ゴースト」 だったり 「スピリット」 だったりします
同じ版の中でも、「ゴースト」 と 「スピリット」 が混在しています。
ギリシャ語の聖書で使われている言葉は、「スピリット」 の意味だけしかありません。
(ギリシャ語の先生に、聖書でのこの語句がギリシャ語でどうなっているのか聞きました。)
ここで、ヨハネ14:26 を記したとされる本人の別の記録を見てください
愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。
多くのにせ預言者が世に出てきているからである。
〔ヨハネの第一の手紙 / 4章 1節〕
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ここで 「霊」 と 「預言者」 は同義語です
続く節、
あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。
〔ヨハネの第一の手紙 / 4章 2節〕
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「神の霊」=「神の預言者」 ですね
しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。
わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。
もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。
〔ヨハネによる福音書 / 16章 7節〕
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もしも 「助け主」 「真理の御霊」 が、イエスがバブテスマを受けたときに鳩の姿で降りてきたホーリーゴースト、聖霊であるなら、
どうしてイエスは
「わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう」
と言うのですか?
もしも、三位一体の一つであるとされる聖霊そのものなら、イエスの前にも、イエスがこの世にいらした間にも、来ました。
イエスが去らなくとも、それはいつでも働いているものでしょう?
誰々は聖霊に満たされていた、聖霊が宿っていた、という表現は聖書中にしばしば見られますね。
例えば、バプテスマのヨハネは母の胎内にいた時から聖霊で満たされていた、と聖書に書いてあります。
彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、
〔ルカによる福音書 / 1章 15節〕
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エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、
〔ルカによる福音書 / 1章 41節〕
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イエスの使徒たちも、遣わされるために聖霊を身に受けました。
十字架にかけられて死んだと思っていたイエスが弟子たちの前に現れた場面です、
イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
〔ヨハネによる福音書 / 20章 21節〕
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また、
彼(バルナバ)は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである。こうして主に加わる人々が、大ぜいになった。
〔使徒行伝 / 11章 24節〕
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バルナバはこのような人でしたが、彼の書いた 『バルナバの福音書』 は教会に認められていません。そこには 「イエスは神の息子ではなく、預言者である。パウロは『惑わされている者』である」 と書かれているためです。イエスは十字架にかけられたのではなく、生きて天に上げられたとも言っています。 Barnabas.net
わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。
〔使徒行伝 / 5章 32節〕
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この提案は会衆一同の賛成するところとなった。そして信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、それからピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、およびアンテオケの改宗者ニコラオを選び出して、
〔使徒行伝 / 6章 5節〕
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なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。
〔ペトロの第二の手紙 / 1章 21節〕
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そして、あなたにゆだねられている尊いものを、わたしたちの内に宿っている聖霊によって守りなさい。
〔テモテへの第二の手紙 / 1章 14節〕
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「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。
〔コリント人への第一の手紙 / 2章 16節〕
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従って、「イエスが去らなければ来ない」 という条件に当てはまりません。
イエスはユダヤ人のみへ遣わされました
するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
〔マタイによる福音書 / 15章 24節〕
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彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
〔マタイによる福音書 / 1章 21節〕
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イエスはユダヤ人に遣わされた最後の預言者、ユダヤ人への最後の警告者だったのです
結果、先に挙げたイエスの預言どおり、
神はユダヤ人に見切りをつけ、異なる民の中へ次の預言者を遣わすことになりました
ムハンマドは全人類へ遣わされました
神はテマンからこられ、聖者はパランの山からこられた。その栄光は天をおおい、そのさんびは地に満ちた。
〔ハバクク書 / 3章 3節〕
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「主はシナイからこられ、
セイルからわれわれにむかってのぼられ、
パランの山から光を放たれ、
ちよろずの聖者の中からこられた。その右の手には燃える火があった。
〔申命記 / 33章 2節〕
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パランの山はマッカにあります。
イシマエルと母ハガルが、サラに追い出された後に住んだ地 (創世記21:21)、
ムハンマドの出身地です。
シナイ山はモーセが律法を授かったところ。
セイルはパレスチナの地名で、イエスが教えを受けたところ。
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するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」
[聖書 マタイによる福音書 / 4章 10節]
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日本語の 拝し は、アラビア語では、تَسْجُدُ(サジダ)つまり、ひれ伏し です。
فَقَالَ لَهُ يَسُوعُ: «اذْهَبْ يَاشَيْطَانُ! فَقَدْ كُتِبَ: لِلرَّبِّ إِلهِكَ تَسْجُدُ، وَإِيَّاهُ وَحْدَهُ تَعْبُدُ! »
(Arabic Life Application Bible [ﻣﺘﻰ 4:10 ] )
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英語では 拝し が多い中、立礼し もありました。
Then saith Jesus to him, `Go -- Adversary, for it hath been written, The Lord thy God thou shalt bow to, and Him only thou shalt serve.'
(Matthew 4:10 Young's Literal Translation)
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さあ、われらは拝み、ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう
[聖書 詩篇 / 95篇 6節]
O come, let us worship and bow down: let us kneel before the LORD our maker.
[Psalm 95:6 (King James Version)]
تَعَالَوْا نَسْجُدُ وَنَنْحَنِي، لِنَرْكَعْ أَمَامَ الرَّبِّ صَانِعِنَا،
(Arabic Life Application Bible [ﺍﻟﻤﺰﺍﻣﻴﺮ 95:6] )
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原語では、ひれ伏し、立礼し、ひざまづこう だそうです。
カトリック教徒の方は、「たまにひれ伏すこともある」 とおっしゃっていました。
プロテスタントの教会では、ひれ伏し、立礼し、ひざまづいて祈っているのを、私は見たことも聞いたこともありません。どうしてひれ伏さないのでしょうか。
ムスリムはひれ伏し、立礼し、ひざまづいて礼拝します。
あなたがた信仰する者よ、立礼し、ひれ伏して、あなたがたの主に仕えなさい。
[聖クルアーン77:22]
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イエスも平伏して祈っておられました。
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、
「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
〔マタイによる福音書 / 26章 39節〕
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おわりに
また啓典の民と議論するさいには,立派な (態度で)臨め。
かれらの中不義を行う者にたいしては別である。それで言ってやるがいい。
「わたしたちは,自分たちに下されたものを信じ,あなたがたに下されたものを信じる。
わたしたちの神(アッラー)とあなたがたの神(アッラー) は同じである。
わたしたちはかれに服従,帰依するのである。」
〔聖クルアーン29.アル・アンカブート章〕
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啓典の民とはユダヤ教徒、キリスト教徒のこと
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注
「わたしたちはアッラーの使徒,マルヤム(マリヤ)の子マスィーフ(メシア),イーサー(イエス)を殺したぞ」という言葉のために(心を封じられた)。だがかれらがかれ(イーサー)を殺したのでもなく,またかれを十字架にかけたのでもない。只かれらにそう見えたまでである。本当にこのことに就いて議論する者は,それに疑間を抱いている。かれらはそれに就いて(確かな)知識はなく,只臆測するだけである。だが実際にはかれを殺したのでもなく,
いや,アッラーはかれを,御側に召されたのである。アッラーは偉力ならびなく英明であられる。
[聖クルアーン 4. 婦人 (アン・ニサーア)章 157-158]
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ほかの人が、神によってイエスと同じ外見になされ、イエスの代わりに十字架にかけられました。
このように、聖書の記述は聖クルアーンが正しいことを証明しています。
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