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イスラームにおいて ①聖書は啓典の一つであること ②イエスは神の使徒の一人であること ③多神崇拝は大罪であること をご確認ください。 |
| ●目次● | ||||||||||||||||||||||
| このページは、当サイト上でキリスト教徒の(イスラームやムスリムに対して偏見のある)方々とやり取りをするにつれてまとめられました | ||||||||||||||||||||||
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| 唯一の、まことの神でいますあなた |
上はイエスの言葉です。
この二者は同一の存在? イエスは神? 私はイエスのこの言葉に疑問を抱いているのではなく、 キリスト教徒がこの言葉通りに信じていないのではないかと思っているのです。 ムスリムはというと、この言葉に同意しています。 クルアーンにも次のようにあるからです。
そして、これには次のように続きがあります。
聖クルアーンからの引用は、これ以後、ページの最後まで出しません。 聖書に書かれていることに基づいて述べます。 |
| 善いのはわたし(イエス)ではなく神 |
上にあげたのはルカによるものですが、同じ内容のことがマタイによっても記されています。
マタイの日本語訳は英語訳と比べて違う所があるのです。 聖書を個人の手で訳すことは反感を買いそうですが、この英語を日本語にしてみると、
赤字が、日本語訳聖書から抜けている文字、または英語版と比べて違う箇所。 英語版でも新しい版は日本語訳と同じになっています。 日本語訳か英語訳のどちらかが、書き換えられているということになります。 いずれにせよ、(マタイによってもルカによっても)イエスが言っているのは、 「『よい』のはわたしでなく、神だけであり、『よい』ことについて一番よくご存知なのはわたしでなく神である」 ということであるのが分かります。 |
| わたしの教ではなく、神の教え |
他の箇所でも、イエスが自分よりも優れた存在があることを示唆している言葉があります。
イエスは、わざわざ言っています、言わなくてもいいのに、わざわざ言っています。 「わたしの天の父」「わたしをつかわされたかた」 イエスが言おうとしているのは、「わたしではなくて、」 ということですよね。 三位一体でイエスも神であるなら、「わたしの父」 も 「わたし」 も同じではないですか。 それなのに、どうしてイエスは 「わたしの天の父、つまりわたしなのだ」 或いは、 「わたしの教はわたし自身の教であり、わたしをつかわされたかたの教でもある。」 と言わなかったのですか。
イエスの伝えようとした教えは、イエスから出たものでなく、神から出た教え。 誰でも素直にこれを読めば、 イエスの言葉は 「イエス≠神」 という意味に取るのでは? イエスは一言も自分が神であるとは言っていません。 |
| 復活?蘇生? |
弟子たちはイエスの霊を見ているのだと思ってびっくりした。 驚いている弟子たちにイエスが何を言いたかったかというと、まとめれば 「何を驚いているのか、私は霊ではない。さわってごらん、私の体を。おまえたちが以前に知っていたのと同じ人間ではないか」 と言っているのですよね? さらに、イエスはご飯も召し上がり、何ら変わるところがないことを示された。 ここまで確認されましたか? これは、「復活した体ではない」 ということです なぜなら、「復活した体」 は 「霊的な体」 であるからです。 イエスは、「霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」 とはっきりおっしゃっています。 復活した者たちは、「天使に等しいもの」 と聖書の中に書いてあります (ルカ20:35-36) イエスが 「同じ体だ」 と主張されているのに、キリスト教徒が 「復活後の違う体だ」 と言う根拠は? どちらの言い分が間違っているのでしょうか? イエス? それともキリスト教徒? ムスリムはイエスを信じていますから、イエスの主張 「同じ体である」 ことを信じます。 植えつけられた知識に頼るのでなく、自分自身で考えてみませんか。 権力に洗脳されないように。
あとで述べますが、聖書出版界は聖書の加筆、削除も行ってきました これを読まれて、神様から考える機会を授かったのですから、 ご自身の頭でこのことを考えてはみませんか? 大切なことです。 キリスト教徒のみなさまは、 「イエスを信じないなんて、ユダヤ教徒はなんて頑固なんだろう!」 と思うでしょう? ムスリムも、キリスト教徒に同じように感じています 「聖書にこんなに明白に記されているのに、キリスト教徒はなぜ信じないのだろう」 と。 イエスがされた種まきの例え話を思い出して、心をやわらかく イエスが言っていることにもう一度耳を傾けてください それから話は戻りますが、 イエスが神であるのなら、「復活」 前のイエスが死んでいたとされる三日間、 この世は神不在の中に存続していたということですか? だって、三位一体は不可分なのでしょう? 神の子イエスが十字架の上で亡くなったときに、父である神も聖霊である神も亡くなった。 イエスが死んでも他の神が生きていたのでは、複数の神がいることになります。 そもそも、神は死んだり生き返ったり、ころころ変わるものではありません。
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| イエスは死ななかった |
イエスは十字架に掛けられることを非常に恐れ、それが起こらないことを願い、上にあるように、神に祈りました。血のような汗をかきながら 額を地に平伏して。
イエスはこのように祈りの力について語られました。 高潔なイエスが、ゲッセマネでされたように必死で祈りを捧げられたのに、祈りは聞き届けられなかったのでしょうか? その答えは次にあります。
イエスの願いは「聞きいれられた」 ・・・つまり死ななかった、ということになります。 ![]() このような預言もありました。
十字架に手足を釘で打ち付けられていたら、骨に損傷を受けるはず。 この預言が成就されたとすれば、イエスは十字架にかけられなかった。 次に引用する、この預言は成就した、と書いてある箇所では 釘による手足の骨の損傷について触れていませんが、また別のことが見出せます。
たとえ十字架に掛けられていたとしても、イエスはまだ生きていたのですね。死んでいたら血が流れ出ることはありませんから。 はじめの兵卒らはイエスが生きているのを知って、イエスに同情して、足を折らずにいた可能性も考えられます。 加えて、この文章を何度読み返しても、「キリスト」 は 「神」 ではないことの証明にしか見えません
それでもまだイエスは十字架で死んだというのなら、イエスは神に呪われた者であるということになります。
では、十字架にかけられたのは誰だったのか? (聖クルアーンにはこのように記されています) マルコ16章の最後にある、復活についての部分が挿入されたものであることも考慮ください。 Judas stars as 'anti-hero' in gospel |
| バプテスマを受ける神? |
これは神からの啓示でなく、物語りです。イエスのおっしゃったことでもありません。 この聖書を書いたルカはイエスの弟子でもありませんでした。 それにも拘わらず、イエスが神でも神の子でもないことの明らかな証拠となっています。 ![]() ● 神は洗礼を受ける? ルカはイエスが洗礼を受けたと言っています。神は洗礼を受けません。 神に仕え神を崇拝するための前段階にあるのが洗礼、 それまでに犯した罪を赦してもらうのが洗礼、 であるとすれば、神に従うという印のようなもの。 神が自らを崇めるために洗礼を受けているのですか? ![]() ● 神は誰かに祈りを捧げるの? 祈っておられると イエスが神なら、いったい何に向って祈っていたのか? 神こそは人々が崇める対象であり、神は誰にも祈りを捧げません。すべての称えは神に向けられます。 ![]() ● 神様があちらにもこちらにも 聖霊がはとのような姿をとって この場面を想像してみてください。 神イエスが天にいる別の神に祈りを捧げているところへもう一つの神である聖霊が降りてきた ・・・・異なる位を持った三つの神が登場している。一神教から外れているようです。 ![]() ● たくさんの神の子 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」 ルカか誰かがこの声を聞いたとしても、イエスが神であることになりません。 なぜなら、「子」 と呼ばれているのはイエスだけでないし、 イエス自身も 「あなた(がた)の父」 という言葉を使って民衆に語りかけていたからです。 「イエスは神のひとり子ではない」 を参照ください |
| 断食する神、悪魔に試される神 |
● 神が指導を受ける必要がある? 神がサタンに誘惑される?
聖霊が、サタンの誘惑にどのように打ち勝つかを教えるためにイエスを荒野へ連れて行った。 聖霊がサタンのだまし方をイエスに教えた。イエスがそれを避けられるように。 もしもイエスが、キリスト教徒がいうように神、または神の子であるなら、どうしてサタンのやり方を聖霊に指導してもらう必要が? 天地の創造主が教えられる必要があるだろうか? ![]() ● 神が断食をして空腹になることがある? イエスは40日40夜断食し、空腹を感じた。 食物を必要とするものは神でも創造主でもない。神は誰の助けも必要とされない自存者であられる。 飲食しないと生きていけない人間はトイレにも行く。神もそのような性質を持っておられるというのか? 弱く、助けを必要とする人間の性質を、全知全能である神に当てはめることはできない。
![]() 「神の子」という言葉については、 「イエスは神のひとり子ではない」を参照ください ![]() 悪魔は・・言った、「飛びおりてごらんなさい。 『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』 と書いてありますから」 悪魔はイエスに向って 「神はあなたのために・・・」 と語りかけています。 イエスが神ならその言い方はおかしい。 さらに、足が石にあたって砕けないように、天使に世話を焼いて守ってもらわなくてはならない神とは ?! 落ちるときに天使の保護がいるのは無力な人間ではないですか。 ![]() イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。 自分で自分を試そうとしているわけではない。イエスは彼の主である神を試みたくないのでしょう? このイエスの発言を言い換えてみると、 「主なるわたしの神を試みるためにここから飛び降りることはできない。」 ということですよね。 ![]() 「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」 もしイエスが神であるなら、以前に遣わされた使徒の言葉を引用するのでなく、次のように応えるのでないか。 「これらはわたしが創造したものである。地上にあるすべての王国はわたしのものである。」 |
| 神につかわされたイエス |
主の御霊がわたしに宿っている。 イエスはどうして 「わたしの御霊がわたしに宿っている」 または 「主はわたしであり、御霊はわたしであるが、それがわたしに宿っている」 と言わなかったのだろう? わたしを聖別してくださったからである 自分で聖別しておいて 「くださった」 とは言わないだろう。 そもそも神がご自身を聖別することがあるのか? そうではない。 メシアは神によって聖別された。 それまでもあったユダヤ教徒の慣習として。司祭や国王も聖別された。 主はわたしをつかわして イエスは神によって遣わされた使徒である、ということです 遣わすものと遣わされるものは同じではない、遣わすものの方が上である と書いてありますね。
まさる者とその下に位置する者がいる、 神は唯一なのに?
イエスの教えでないキリスト教・・・ 次は、ゲッセマネの祈りの場面を思い出してください |
| 神に祈るイエス |
ここにも、決を下すものと、それに従うものの関係がはっきりと表れています。 一つの神の中に主従の関係があるというのは理解できません 一つの神の中に 「わたしの思い」 と 「あなたの思い」 まであります そして、 「あなたには、できないことはありません」 そう、神にできないことはありません。 ![]() これはメモの欄に書いたものです・・・ 学校にて その① ゴッド先生が受け持つクラスには先生の子どもゴッドJr.くんもいました。 ゴッドJr.くんはクラスで優秀な良い生徒でした。 そしていつも、好き勝手するクラスのみんなに 「ゴッド先生に従おうよ。」 と呼びかけていました。 しかし、他の子どもたちは先生の言いつけを守らず、ゴッドJr.くんをいじめてばかりいました。 ゴッド先生はおこりました。 「みんなどうしていい子にならないんだ?!」 でも、ゴッド先生は悪いことばかりする生徒たちを許すことにしました。 ただそれには一つの条件がありました。 クラスの悪い子たちが非の打ち所のないわが子ゴッドJr.くんをはりつけの刑にするという条件です。 ・・・・しまいにはゴッド先生はゴッドJr.くんを見捨てました 神はこんなに理不尽なことをするお方ではありません 神が人間を許そうと思えば、 イエスを十字架に掛けなくとも許すことは出来るはずです。 しかも、Jr.ゴッドは神だというのです。神が神に人間の罪を許してもらうのに磔にされる必要が?
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| 言は肉体となった |
この箇所が、イエスの神性を示す証拠であるそう。 ムスリムもイエスが神の御言葉であることを信じています。 でも、これを読んでどうすれば三位一体という結論に達することになるのでしょうか。 また、これはイエスの言葉ではないし、 イエスに帰属するものでもないので、 イエスの神性を示す証拠とはなりえません。 聖書には疑わしいところがたくさんありますが、 特に 《ヨハネによる福音書》 はキリスト教学者たちによっても全体的に疑いを指摘されているくらいです。 《ヨハネによる福音書》 を使徒ヨハネによるものとする聖書学者は殆どいないということはご存知ですか? 現在では作者不詳とされています。 聖書学者の言葉を引用します、 「ヨハネと、他の三つの福音書が描く二つの異なった記述は歴史的に正確となりえない。 第四福音書にある、イエスのものとされる言葉のほとんどは執筆者の創作で、ヨハネ教団の言葉を反映している。」 また、世界屈指の聖書学者レイモンド・ブラウン氏は、《ヨハネによる福音書》 は複数回に渡り編集されていると述べています。 作者も特定できず、「付け加えられたり差し引かれたり」 されているヨハネの福音書中のほんの一部の記述を見るだけで、 聖書全体で貫かれている 「唯一神を信じよ」、 イエスが呼びかけ続けた 「わたしを遣わされた唯一の神を信じよ」 という言葉を打ち消すことはできません。
これは口語訳と新共同訳で節が違います。口語訳 8章1-4節 は、新共同訳では 7章26-29節。
ヨハネ1:1 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 」 をイエスが神であることの証拠とするには、これら全てを間違いであるとすることになります。 あるいは 「言は神であった」 は、次の箇所
のように、 「言は神 のものであった」 のかもしれません。翻訳するときに間違いがあった可能性は否めません。 |
| イエスは神のひとり子? |
キリスト教徒の方に、「イエスは神の子であると聖書に書いてある。神の子というのは神である。」 と言われました。 聖書の中で神の子と呼ばれているのはイエスだけではありません。 ここにに出てくる 「神の子たち」 は父なる神ヤハウェと子なる神イエスとどのような関係になりますか? この 「神の子たち」 はイエスの兄弟である神々ということになりますか? ●アダムも神の子
☆ちなみに、「人々の考えによれば」は後世に挿入された言葉です。(「書き換えられた聖書の箇所」参照) ☆斜体部分について、日本語の聖書では 「エノス、セツ、アダム、そして神にいたる。」 と曖昧な感じですが、英語では、"the son of Enosh, the son of Seth, the son of Adam, the son of God." と明記されています。 ●イスラエルも神の子
●神の創造物
●ダビデも神の子
●ダビデの民
●平和をつくり出す人たち
また、神が 「父」 と呼ばれるのは、イエスが 「わたしの父」 という時だけではありません。
これらはイエスの言葉です。 たくさんあるので挙げきれないくらいです。 「あなたの父」 等の語句で検索してみると何百もあります。 ここで 「父」 が意味するのは血縁関係にある父ではないでしょう? しもべを導き守る存在という意味ですよね。 これがもし血縁関係の意味の父子関係であるとするなら、 ユダヤ教徒や聖書の読者みなが神の子=神になってしまいます。 「主の祈り」 を唱えてみてください。その冒頭にも出てきます。 天にましますわれらの父よ・・・・ |

| 神様は大家族? |
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キリスト教徒がイエスを神とする、もう一つの論拠 「イエスの父が神であるからイエスは神である」 に関して 例えばあなたはお父さんの子であり、人間です。お父さんが人間であなたは人間の子と言う事は無く同じ人間ですね。 と、あるキリスト教徒に言われました。 この例、すでに 「イエスは神の子である」 という納得できない前提に成り立っているものですが、 私の父は人間なので私も人間、これはわかります。 でも、このキリスト教徒は母親の存在を忘れているようです。 私の母も人間です。 イエスの母はこの場合どうなりますか? マリアは人間でなく神ですか? マリアも神だとすると、三位一体ではなくて 「四」 になるのでしょうか。 となるとマリアの両親も神でしたか? 祖父母も? もしそうなら、数字は限りなくなりますが、 父と子と聖霊と母と祖父母と (おじさんやおばさんも?)・・・・すべて一体? 三位一体について |

「イエスが上のように言ったからイエスは神である」 という主張に従うと、次の箇所は・・・
弟子たちもイエスと父のうちにいる、つまり弟子たちも神であることになり、15位1体になります。 そうではありませんね。イエスが言っているのはチームワークのようなことではありませんか。「みなが一つとなって働く」 というときと同じように。 |
| イエスの奇跡 |
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また、「イエスの行った奇跡が、彼が神であるという証拠だ」 というキリスト教徒がいらっしゃいました。 それを根拠とすると、神様だらけになります 他の預言者たちも、彼らが神の預言者であることを証明するために、 奇跡を起こす力を神から授かっていましたから。 杖を蛇に変え、海を分けて渡ったモーセ、大魚に飲まれたヨナも奇跡でした。 |
| イエスは 5斤のパンと二匹の魚だけで5000 人 を満足させることができた |
エリシャも 大麦のパン20個と新穀1袋を100人に与え、人々は食べてなお余した 〔列王紀下 / 4章 42-44節〕 |
| エリシャは ひとりの妻に油について請け負った 〔列王紀下 / 4章 1-7節〕 | |
| からすがエリヤに食べ物を運んできた エリヤは やもめ女にかめの粉とびんの油について請け負った 〔列王紀上 / 17章 1-7節、16節〕 |
| イエスは らい病患者を助けた |
エリシャも らい病のナアマンを癒した 〔列王紀下 / 5章 14節〕 |
| イエスは 目の見えない人を見えるようにした |
エリシャも 目の見えない人を見えるようにした 〔列王紀下 / 6章 17節、20節〕 |
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エリシャは 目の見える人が見えなくなるようにと祈り、そのようになった 〔列王紀下 / 6章 18節〕 |
| イエスは 死人を蘇らせた |
エリヤも 死人を蘇らせた 〔列王紀上 / 17章 22節〕 |
エリシャも 死人を蘇らせた 〔列王紀下 / 4章 34節〕 |
エリシャの骨さえも 死人を蘇らせた 〔列王紀下 / 13章 21節〕 |
| イエスは 水面を歩いた |
モーセとその民も 死海を分けて渡った 〔出エジプト記 / 14章 22節〕 |
| イエスは 天に上げられた |
エリヤは つむじ風に乗って天にのぼった。 〔列王紀下 / 2章 11節〕 |
| エノクは 神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。 〔創世記 / 5章 24節〕 | |
| エノクは 死を見ないように天に移された。 神がお移しになったので、彼は見えなくなった。 〔ヘブル人への手紙 / 11章 5節〕 |
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預言者たちにこれらの奇跡をなす力を与えたのは神です。 イエスも言っています、
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| 書き換えられた聖書の箇所 |
聖書の編纂者たちはどうして聖書の言葉を変えてしまったのでしょう? 聖書は神の霊感を受けて書かれたもので、神の言葉とされるのではありませんでしたか? 神の言葉を添削する権利を、いかなる人間が持っているのか? ムスリムは、聖クルアーンによって、聖書の書き換えられた箇所を指摘することができますが、 キリスト教徒の目にも明らかな箇所をご紹介します (聖クルアーンなしで、聖書それ自体をみるだけでも、その矛盾から5万の間違いを指摘できると言われます)
人々の考えによれば、 日本語の聖書ではこうなっていますが、この箇所は言語によって異なります。 英語の聖書をお持ちの方はご確認ください
カッコがついています。 古い版はどうかというと、カッコと括弧内の語句まるごとなく、 直接こうなっていました。
編纂者がおそらく、子羊が理解し易いようにと思って (人々の考えによれば、) 説明として括弧書きを入れたのでしょう それが翻訳されたり、後世の編纂者がいじくっているうちに 「このカッコ、なくてもいいかも・・・・」 とうとう括弧までなくなって、 あたかもその語句が最初からそこにあったかのようになった この、括弧を取り払った方々は、括弧の意味が分からなかったのか? 括弧がどういう時に使われるものかを知らなかったのか? それとも、神の言葉ではなく ルカが勝手な思いつきから書いた文章だとみなしているのか? だから私たちの都合のいいように変えてもだいじょうぶ? キリスト教徒の方々は、神の言葉を変えても許されると思っていらっしゃいますか? ● ( ) が取られた別の例 「すべての食物を清められたのである」 [マルコ福音書7章19節] |
| 高校生の年で赤ちゃんイシマエル |
「聖書では、アブラハムが神に捧げようとしたのはイサクなのに、イスラームがそれをイシマエルだとする根拠は?」 とキリスト教徒から質問されました。(質問というより、尋問調子でした。「クリスチャンとの対話」参照) 「聖クルアーンにそう述べられているから」 というのが答えですが、 それでは納得してもらえず、尋問が続きましたので、聖書に答えを見つけようと読み直しました。 書き換えられているという証拠になるものがあるのではないかと、探すつもりで。(神は間違いであることを示す何かを残しておいて下さっているものです) そして見つけたのが、今から記すことです・・・ 上の聖書からの引用には、アブラハムと長男イシマエルの年齢が明確に書いてあります。 イシマエルは 13才 ・・・もう少し先へ読み進めて、次は次男イサクが生まれたときのこと
イサクがうまれたとき、 アブラハムが 100才 イシマエルは 14才
イサクが乳離れした年齢 (現代の感覚でいうと1-2才) のとき、 イシマエルは 15-16才以上と考えられる
15-16才以上であると推定されるイシマエルが赤ちゃんのようです。 今でいう高校生くらいの年齢なのに、お母さんに持ち上げられて抱っこされています。 話が合いません ・・・これは、イシマエルが犠牲になるところだったのを、「イサク」 に書き換えるために前後の話も入れ替えられて、つじつまが合わなくなったのではありませんか? 2006.10.28記 ![]() その後、ほかにも年齢が分かる箇所があるのに気付きました。
アブラムは86歳 イシマエルは0歳 2008.11.10記 |
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イサクの母親サラは、年をとっていて、閉経を迎えてから長い時を過ぎていましたが、 神の力によってイサクを身ごもりました。
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| 鶏はいつ鳴いたか |
上記のイエスの預言がどのように成就されたかというと・・・・
3度否定する前に、1回目の否定後、すぐに鶏が鳴いてしまいました。 新しい版では、 相違に気付いた聖書編纂者たちによって一度目に鶏が鳴いたところが削除されているものがあります。 日本語の聖書でもそうです。 一回目に鶏が鳴いたところを消去してしまったようです。 そのために、以下のように、一度目がないのに、突然 「二度目に鳴いた」 となっています。
そしてよく見てみると、ペテロに 「あなたも仲間ではないか」 と問いかけた人も、福音書によって違います。
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| 異なる数 |
分かりやすくアラビア数字で表すと、
数字が違うのですが、これだけで終わりません さらに英語の聖書を確認してみたところ、 日本語の聖書『サムエル記下』の記述と異なっていました。
これは、『歴代志上』の数字と同じ! はては、この相違に気付いた編纂者が書き換えて数字を合わせたのでしょう (これは New International Version、新版ですから) ためしに、英語の聖書でも他の版をあたってみると・・・
別の数字が! こんなに簡単に見つかることに、私自身びっくりしています。 みなさまも、ちょっと気をつけて読めば、どこか間違いが見つかると思います。 ついでに、アラビア語とフランス語の聖書はどうかしら?
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| その他の間違い |
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次の例は、ダビデの人口調査
「主」 か 「サタン」 か、大違いです。 (サタンも神であるとするキリスト教会もあるそうですが) (話はそれますが、「ダビデを感動して」 「サタンが起って」 というのは変な日本語ですね) |

キリストはダビデの子ではない、と言ったのに、マタイは 「ダビデの子」 と書いた。 |

イエスの肩書きの違い
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イエスの死、時間の違い
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エレミヤ?ゼカリヤ?
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正直なところ、こんなに矛盾が見つかるので、探すのがおもしろくなってきたところですが、 私の目的はただのアラ探しではありません。 「聖書にはこう書いてあるのに、クルアーン(コーラン)ではこうなっているのがおかしい」 とクリスチャンの方に問われたのを受けて、 聖書は、客観的に見ても間違った記述があることを提示する必要があるためです。 (念を押しますが、聖書にも多くの真実が残っていることもムスリムは認めています) 次に、聖書は道徳的に規範となるものなのか?を考えます |
| 近親相姦と糞の話 |
父と娘たち、母と息子、義父と義娘、兄妹の間の近親相姦です。 しかも、神によって遣わされた預言者たちまでもがこの中にいます。 聖書は聖なる預言者たちを辱めました。 (ちなみに、調べてわかったことがあります。 上の、義父と義娘の姦淫によって双子が生まれましたが、マタイによるとイエスの先祖にあたるとのことです。) ![]() 他にも、これは本当に神様の言葉なのかしら?と思う記述があるのですが・・・ たとえば、 - しばしの間汚い話になりますが、聖書にある言葉です -
神が 「パンを人の糞で焼け」 と仰せられ、預言者エゼキエルが神にお許しを乞います。 すると神は、
それでも、まだ牛の糞です。 糞、聖書にたまに出てきます。
神に従わないときは顔の上に糞を撒き散らすと、神が仰せられています。 |
| 人間に負かされる神 |
キリスト教は神を軟弱なものとみなしているようです。 神は、人間と取っ組み合いをするようなお方でしょうか? しかも、それで勝てないほどのお方でしょうか?
と人間にお願いする神
と人間に脅されるような存在ですか? ・・・神への冒涜ではありませんか? 太陽は神の被造物です。神はそれが昇るのを止めることさえできるでしょう。 神は全知全能のお方です。 |
| 聖書がムハンマド (saw) を預言 |
上の言葉はイエスがユダヤ人に向って言われたものです 神がユダヤ人とは別の民を選ぶことを預言していらっしゃいます ![]() 次は、神がモーセに言ったことです。この預言者とは誰でしょうか?
イエスではありません。ムハンマドです。聖書によって証明できます。 申命記のこの節についての詳細は、当サイトから注文できる本 『聖書が証すムハンマド(彼に平安がありますように)』にあります ![]() また、次はイエスの語ったことです。ここで預言されていることは誰にあてはまるものでしょうか?
ここにある 「助け主」 「真理の御霊」 とは何でしょう? 「もちろん聖霊様です」 とお答えになったキリスト教徒がいらっしゃいました。 次の言葉からそう判断なさっているようです
斜体字部分は元の聖書にはなく、後世加えられた言葉です。 聖書で繰り返し出てくる 「御霊」「霊」「聖霊」、この言葉はわかりにくい言葉です。 この 「霊」 は、英語の聖書を見ると、「ゴースト」 だったり 「スピリット」 だったりします 同じ版の中でも、「ゴースト」 と 「スピリット」 が混在しています。 ギリシャ語の聖書で使われている言葉は、「スピリット」 の意味だけしかありません。 (ギリシャ語の先生に、聖書でのこの語句がギリシャ語でどうなっているのか聞きました。) ここで、ヨハネ14:26 を記したとされる本人の別の記録を見てください
ここで 「霊」 と 「預言者」 は同義語です 続く節、
「神の霊」=「神の預言者」 ですね
もしも 「助け主」 「真理の御霊」 が、イエスがバブテスマを受けたときに鳩の姿で降りてきたホーリーゴースト、聖霊であるなら、 どうしてイエスは 「わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう」 と言うのですか? もしも、三位一体の一つであるとされる聖霊そのものなら、イエスの前にも、イエスがこの世にいらした間にも、来ました。 イエスが去らなくとも、それはいつでも働いているものでしょう? 誰々は聖霊に満たされていた、聖霊が宿っていた、という表現は聖書中にしばしば見られますね。 例えば、バプテスマのヨハネは母の胎内にいた時から聖霊で満たされていた、と聖書に書いてあります。
イエスの使徒たちも、遣わされるために聖霊を身に受けました。 十字架にかけられて死んだと思っていたイエスが弟子たちの前に現れた場面です、
また、
バルナバはこのような人でしたが、彼の書いた 『バルナバの福音書』 は教会に認められていません。そこには 「イエスは神の息子ではなく、預言者である。パウロは『惑わされている者』である」 と書かれているためです。イエスは十字架にかけられたのではなく、生きて天に上げられたとも言っています。 Barnabas.net
従って、「イエスが去らなければ来ない」 という条件に当てはまりません。 ![]() イエスはユダヤ人のみへ遣わされました
イエスはユダヤ人に遣わされた最後の預言者、ユダヤ人への最後の警告者だったのです 結果、先に挙げたイエスの預言どおり、 神はユダヤ人に見切りをつけ、異なる民の中へ次の預言者を遣わすことになりました ムハンマドは全人類へ遣わされました
パランの山はマッカにあります。 イシマエルと母ハガルが、サラに追い出された後に住んだ地 (創世記21:21)、 ムハンマドの出身地です。 シナイ山はモーセが律法を授かったところ。 セイルはパレスチナの地名で、イエスが教えを受けたところ。 |
| イエスの礼拝の形はムスリムと同じ |
日本語の 拝し は、アラビア語では、تَسْجُدُ(サジダ)つまり、ひれ伏し です。
英語では 拝し が多い中、立礼し もありました。
原語では、ひれ伏し、立礼し、ひざまづこう だそうです。 カトリック教徒の方は、「たまにひれ伏すこともある」 とおっしゃっていました。 プロテスタントの教会では、ひれ伏し、立礼し、ひざまづいて祈っているのを、私は見たことも聞いたこともありません。どうしてひれ伏さないのでしょうか。 ムスリムはひれ伏し、立礼し、ひざまづいて礼拝します。
イエスも平伏して祈っておられました。
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啓典の民とはユダヤ教徒、キリスト教徒のこと |

