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頭で考えた私の宗教探し



初めてキリスト教会へ通ったのは6才位、
中学生の時はそれ以外に自分から進んで
聖書講座を受講したり本を読んだりもしていました。


中学1年の歴史ではダーウィンの進化論が出てきたので、
それについて教会の先生に質問することもありました。


(その頃は学校で学ぶことは絶対の真理だと思っていました。

先生の一人は、
「猿の血と人間の血は違うのにどうして先祖でありえるか」
という質問で答えてくださいました。


後に知ったのですが、
日本のようにダーウィンの進化論を真実のように学校で教えている国は
世界でも珍しいようです。

ヨーロッパにいた時も、
何人かのヨーロッパ人に猿からの進化の話をしたら、

「日本人はまだそんなの信じてるの?!」
とびっくりされました。

あたかも時代錯誤な事であるかのように。


その後で科学の本やビデオを買って調べたら、
ダーウィンの進化論は一つの憶測にすぎず、
科学的証拠もないものと分かりました。)


補足・・1996年ローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世は進化論を認めました。
日本の新聞、朝日と讀賣の掲載は確認しました。
そのことはカトリック教徒もご存知ない方が多いみたいです。
知り合ったカトリック修道女の方は「日本人は祖先が猿だと思っているの?!」と驚いていたくらいですし。




また、ダーウィンの進化論についての質問と同時に、

「人は神様によって創造されたのなら、神様はどこから来たの?」

という質問も 教会の先生方にして困らせていました。

(困らせていたというより、私はさぞかしうっとおしい子だったろう、、

そして、そんなことを一所懸命聞いていた私は、
すでに神様の存在を信じていて、確認したかったのだと思います。)


大人になってからも探究心は変わりませんでした。


● 地球より小さい惑星では、重力が弱く、大気を引きとめておくことができない

● 地球がもう少し太陽に近かったら、熱すぎて人間は生きていられない

● もう少し太陽から遠かったら、寒くて生きていられなかった

● 水分が蒸発せず凍結せず、液体の状態を保てる、太陽からちょうどよい距離


こんなにちょうどいい位置に惑星が配置される確率ってどれくらい? 
・・・・考えてみたことありますか?


人間と地球にとって丁度良い太陽系の惑星の位置が
ビッグバンによってまったくの偶然で定まる確率を計算した学者がいます。


0.000000000000000000000000000.............ナントカ%

とのこと。
0「ゼロ」が何百個だか、数字が何だったかも忘れました。

とにかく、数学の世界では、小数点の「てん」の後にゼロが30数個つくと
その数字は「ゼロ」=「無」とみなされるそうです。

この太陽系が偶然に発生する確率 = ゼロ 


「偶然ではない」


自然界の様々な現象、
自分の体をみるだけでも、
動植物を見ても、
空を見ても、

偶然だけでは計り知れないことがたくさんあります。


本当に天と地の創造,

昼夜の交替,

人を益するものを運んで海原をゆく船の中に,

またアッラーが天から降らせて死んだ大地を甦らせ,

生きとし生けるものを地上に広く散らばせる雨の中に,

また風向きの変換,

果ては天地の間にあって奉仕する雲の中に,

理解ある者への(アッラーの)印がある。


〔2 アル・バカラ 164節〕






洗礼を受けてクリスチャンになろうか
と考えたこともありましたが、
とうとう踏み切りませんでした。





ヨーロッパ留学中に初めてムスリムたちと友達になり、
初めてイスラームという宗教の存在に気付いてから興味を持って勉強し、
ムスリムになりました。





後になって、
どうして私はキリスト教徒にならなかったか、わかってきました。

キリスト教では

「イエス様と十字架と私たちの罪」

=「イエス様が私たちの罪のために十字架にかかって下さった」

ということが重要なようです。

でも、私には

「神様の存在」ということが大事だったのです。




これまで接したキリスト教徒は全員言いました

「信仰は理屈じゃない」。


でも、少なくとも私には、宗教は感情に任せて信じるのでなく、頭で考えて信じるものでした。


キリスト教の教えには根拠が見つかりませんでした。



私には、イスラームを信じるために、

「神の使徒の言葉は本当か?」 

「聖クルアーンの記述は本当か?」

「神の使徒であるとされる人は本当に神の使徒なのか?」

という事柄について
客観的、科学的証拠がなければいけませんでした。




キリスト教会のキャンプで別の教会の牧師先生にお会いしました。

熱心な求道者だった中学一年生の私は
キャンプが終わった後も、一時間電車に揺られてその牧師に会いに行きました。

牧師先生はおっしゃいました

「もし神様がいるなら洗礼を受けておいたら天国に行けていいと思った。

もし神様がいなかったとしても、それで何を失うわけではないでしょ」

「へぇー、そんな動機でもいいの」と私も笑っていましたが、


今思うと、それは「そんな動機」どころか「十分な動機」でした。

天国か地獄のどちらかに行くことになった時のため。


注:誤解なさったキリスト教徒の方がいらっしゃったので、
この牧師先生に敬意を払うために、書いておきます。

「正当でない動機で洗礼を受けた方」として紹介しているつもりはありません。

天国を信じることは信仰の基本ですから、
むしろ私は今になってこの牧師先生のおっしゃったことをよく理解できたのです。




それと、誤解のないように書いておかなければ、、、

ムスリムになったら誰でも天国へ直行できるという保証があるわけではありません。

信仰告白は信じて言わなければ意味のないものだし、

あらゆる行為も信仰心が伴っていなければ受け入れられません。


そのため、イスラームでは宗教の強制はいけないことです。

あなたがたには,あなたがたの宗教があり,わたしには,わたしの宗教があるのである

〔聖クルアーン109 - 不信者たち章6節〕

「わたし」の方がムスリム